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『人さまに迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです。』ということばから橋田さんの安楽死を望むわけが語られています。


 

「私は安楽死で逝きたい」。2016年12月号『文藝春秋』に掲載された1本の記事が大きな反響を呼んだ。原稿を寄せたのは、92歳の人気脚本家の橋田壽賀子さん。「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」はじめ名作ドラマを生み出した脚本家がごく私的な思いから綴った記事は、本人の予想を超えて共感を呼び、その年の読者賞を獲得する。関心が高いが、口にするにはためらいのある「安楽死」について、ご本人が明言するに至った背景を伺った。

私が安楽死を望むわけ

人さまに迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです。

家族がいれば、子どもや孫の成長を見届けたかったり、できるだけ生きていて欲しいと望まれることでしょう。けれども私は、夫に先立たれ、子どもはなく、親しい友人もいない。天涯孤独の身の上です。

仕事は嫌というほどやったし、世界中の行きたい場所へ行きました。もうじゅうぶん生きて、やり残したこともなく、思いを残す相手もいません。

いまはまだ自分で生活できていますが、足腰が立たなくなったらどうしましょう。行きたいところへ行けず、食べたいものを食べられなくなったら。いつの間にか認知症になって、何もわからなくなってしまったら。

食事から下の世話まで人さまの手を借りるなら、そうなる前に死なせてもらいたい。これは、尊厳とプライドの問題です。死ぬときに、痛いのや苦しいのも嫌です。だからいつどうやって死ぬか、自分の意思で決めさせてもらいたい。それには安楽死しかありません。

ヨーロッパのいくつかの国やアメリカのいくつかの州では、安楽死が合法です。だから日本でも認めてもらって、わざわざ外国へ行かなくてすむようになれば助かります。

【文春オンライン 配信】

この記事に接して、

「高齢者の正直な気持ちが綴られているなア」と思いました。

中でも『いますぐ安楽死したいと考えている私だって、今日はお医者さんに行ってきました。血液検査をして、お薬をもらってきました。いつ死んでもいいけど、生きているうちは元気でいたいからです。』という部分が正直な気持ちを余すことなく語っているような気がします。

つまり

記事中にもありますが「足腰立たなくなって、食べたいものも食べられなくなり、認知症におびえて暮らす日々がやがてくる」ということの辛さに耐えながら、場合によっては数年間に渡り生き続けることの意味を世の中に(とりわけ為政者に)問うているのだと思います。

特に近親者のいない高齢者の場合は「生前契約、(後見人契約)、死後契約」などの契約書を作成し、そのために必要な費用を貯めることも必要になります。

安楽死で

自らの命を終えることができれば、自分が寝たきりになって面倒をみてもらうための費用もわずかなものですむでしょうから、ある意味、全ての資金を今の生活を楽しむために使えます。

逆に言えば(極端な表現をすれば)、「どんな形になっても生き続けなければならないから、そのための資金を今の楽しみに使わないで貯蓄しておく生活になる」ということになるのではないでしょうか。

実際に

「自分の最後を想定してその最悪の状況下での生活のために予め契約しておく」ということの辛さに直面した人なら、この橋田さんの言葉をまさに腑に落ちる思いで受け止めることができると思います。

自らの最期を、まさに手術のときの麻酔のような注射で終えることができたら、それが理想であり、幸せな最後と言えるのではないでしょうか。

何よりも、死ぬ時ではなく、それまでの期間の安心感に大きな違いがあることを思えば、安楽死の価値は何十倍にもなるような気がします。

一般的に

老化の最後の段階は、まず歩けなくなる、次に排泄ができなくなる、最後に食事が取れなくなる、の順に経過するものと考えられています。

以前、患者を看取った医師の感想が掲載された記事を読んだことがありましたが、その中の「食べられなくなって亡くなることは、穏やかな死を迎えたと考えて良いのではないでしょうか」という文言が印象強く思い出されます。

安楽死がだめなら、せめて「自ら食を細めて穏やかな死を迎える」ということも選択肢としてあるのかも知れませんが、それはその時の精神状態や周りの環境に大きく左右されるような気もします。

ただ

何となく思うことは一般的に「動物の死は食べられなくなって訪れる」ということが自然界の常識とのことなので、そのような死が誇りある死のような気がしないでもありません。

記事中にも『日本人は、死というものや自分の死に方に、無関心すぎるのではないでしょうか。』とありますが、結局日本人は難しいことをどうにかしようという意思が弱いような気がします。

仮に

完全ではなくても「少しでも理想に向けて進めばそれで良し」という気概があれば、その第一歩を躊躇することなく踏み出せるような気がします。

特に立法府の議員の方々には自らのこととして受け止めて、「安楽死」の法制化を検討していただきたいと思いますが、いかがでしょうか。

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