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本人や家族の意思を尊重しようと、東京消防庁は年内にも、かかりつけ医らの指示による心肺蘇生の不実施(DNAR)を導入する方針を固めたそうです。


 

自宅などで心肺停止状態に陥ったときに、蘇生(そせい)措置を受けずに最期を迎えたい-。高齢者本人が事前にそう希望していたにも関わらず、救急隊が蘇生措置を実施するケースが後を絶たない。こうした本人や家族の意思を尊重しようと、東京消防庁は年内にも、かかりつけ医らの指示による心肺蘇生の不実施(DNAR)を導入する方針を固めた。出場現場での待機時間の短縮など、救急隊の負担軽減も期待できるという。

救急隊によるDNARは心肺停止状態になった末期がん患者らに対し、本人や家族の意思を受けて蘇生措置や救急搬送を行わない対応だ。自宅に駆けつけた救急隊は心肺蘇生の開始後、家族らから事情を聴いて本人の意思を確認。地域のかかりつけ医らの指示を受けて最終的に決定する。

消防法で定められた消防の救急業務は救命を前提としており、DNARは従来と異なる概念の対応になる。これまでも主治医らによる指示で蘇生措置を中止することはあったが、現行の運用では、救急隊は蘇生措置の中止後も医師に直接引き継ぐまで現場から撤収できなかった。

DNARを希望し、東京都内の自宅で今冬、心肺停止になった末期がんの高齢女性のケースでは、119番通報を受けた救急隊が女性の主治医に連絡を取り、現場での心肺蘇生を中止。だが、未明の時間帯で医師の到着が遅れ、救急隊は約2時間にわたって待機せざるを得なかった。

導入に伴い、蘇生中止の意思確認は重要度を増す。東京消防庁はDNARを家族などから自発的に要望が出た場合に限り、救急隊側が主導することはしない。また、普段から患者の状態を知るかかりつけ医か、その連携医から指示を受けることを前提にするという。

【産経新聞 配信】

この記事の中で

在宅医療が専門の恵泉クリニック(東京都世田谷区)の太田祥一院長(58)の次のようなコメントが紹介されています。

『医療の代理人となるかかりつけ医に対し、自身の最期についての希望を伝えておく文化を根付かせる必要がある』

『心肺停止から5分以内に心肺蘇生を開始し、AED(自動体外式除細動器)を使用しても、1カ月後の社会復帰率は4割程度。5分以上経過すれば脳に障害が残る可能性が高まり、家族の負担が増す結果にもつながる。』

『法律のトラブルであれば、弁護士が代理人になるのが当たり前。医療については、かかりつけ医に事前に自分自身の最期についての希望を伝えておくことで、その希望通りの対応が期待できる』

この蘇生措置というのは、

人工呼吸器の装着や胃瘻や胃管による人工栄養といった延命措置とは異なるものと思われますが、脳に障害が残る可能性も高いため、ある意味で延命措置への入り口という言い方もできると思います。

医師の中には「食べ物が摂取できずに死を迎えるのは苦しいことだ」という認識を持っている人もいるようですが、一方で「食べ物を摂取せずに自然に亡くなることは苦しいことだと思っていたが、そうではなく穏やかな死を迎えられることが分かった」という医師のコメントも見られます。

その意味では蘇生措置も延命措置も大変難しい問題だと思いますが、だからこそ本人の意思が大事だなのだと思います。

つまり

元のように戻る可能性が高いのなら何をさておいても実施すべきでしょうが、半身不随など却って苦しみを増す可能性の方が高いことも考えられますので、正にその不安こそが本人の考え方に色濃く反映されていくものと思われます。

高齢になっても医師であり続けた日野原重明さんは延命措置を拒んで自宅で 105歳の最期を迎えられたそうですが、ある意味で専門家としての判断が働いたものと言えるような気がします。

医療技術の進歩により

重症患者でも呼吸や栄養補給、痛みを管理できるようになり、疾病によっては死にいたる過程を人工的に引き延ばすことができるようになったことをうけて「尊厳死」ということも議論されるようになってきていますが、過剰な医療を避けて尊厳をもって自然な死を迎えたいという思いを表明することの意味は大きくなっているものと思われます。

尊厳死を「回復の見込みのない末期状態の患者に対し、生命維持治療を差し控え又は中止し、人間としての尊厳を保たせつつ、死を迎えさせること」と規定し、嘱託人が自らの考えで尊厳死を望む、すなわち、延命措置を差し控え、中止する等の宣言をし、公証人がこれを聴取する事実実験をしてその結果を公正証書にする「尊厳死宣言公正証書」というものもあるそうです。

家族や関係者としては、

たとえ半身不随になっても生きていて欲しいと願うのはある意味で当然のことと言えますが、やはり「本人にとってどうだろうか」という視点が一番重要であることを忘れてはならないと思います。

経済や医療が発達し、快適な生活を送ることができればできる程、様々な選択が可能になり、それ自体は大変好ましいことではありますが、一方でどこで線を引くかという新たな選択の問題に直面していると言っても過言ではないのかも知れません。

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