知人(H.O)さんからメールがきました。 メールの内容を以下にそのまま掲載します。
詩集「言葉の河」- 詩「記憶」の読後感想です。
詩を読んだ後の、心に残った光景です。
『リラの花穂がビルとビルの隙間の入江でふるえ、父と母の、そのまた父と母の、しゃがれた興奮がうすむらさきいろに煙ってゆく札幌の街も百万年以上むかしは海の底だった。あたしは大きな漁場のある、小さな漁村の一つで生まれた。そこには、いま、としよりしかいない。濃い潮の匂いを嗅いで育ったあたしの海では、まだ生まれないこどもたちが、魚への時間をゆめみるように、つくりたてのえらをそよがせては、ほほえみ過ぎてゆく。』
このような光景や、振る舞い、思いなどが、私の心に残りました。
この詩から伝わってきた思いです。
『しゃがれた興奮を求めて、 ビルが林立する街へと若い人達はでていき、大きな漁場があるにもかかわらず、漁村にはとしよりしかいない。これから生まれてくるこどもたちは、百万年以上むかし、海の底を自由に泳ぎ回っていた魚のようにおおらかに生きることをゆめみているに違いないのだが。』
このような思いが、伝わってきました。
都市化が進むと、
人々の生活も、どこか気ぜわしく感じられるものです。便利になるほど、分刻みの行動が可能になり、それが当たり前になっていくからでしょうか。
一方で、人間のルーツをはるかに遡れば、昔は魚であり、海の底をおおらかに泳ぎ回っていたことを思うと、脳の奥深いところには、その漠然とした感覚(本能)があっても不思議ではありません。
その意味では、
人は生まれたときの感覚と、成人して自活するようになったときの感覚には、大きなズレがあるともいえます。
現実としての快適さを求めつつも、時に応じて、おおらかさや、自然性を取り入れて、本来の人間らしい生き方に触れることも、大事なことかも知れないと思いました。(H.O)
以上が知人(H.O)さんからメールでした。またメールがあり次第掲載させていただきます。