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知人(H.O)さんからメールがきました。 メールの内容を以下にそのまま掲載します。

詩集「言葉の河」- 詩「愛恋頌」の読後感想です。

詩を読んだ後の、心に残った光景です。

『おもい使命をうけて、とぎれとぎれのほそい道をまよいあるいて、小さな沼にでた。そこで露営のために、使命の柴束を背からおろして、いっぽんいっぽん火にくべた。いつわりほどよく燃えた。それ以来、指令はとだえ、責めも指弾もなかったので、沼のほとりにじぶんで水を湛えた。しかしその水は、わたしの水をのみにくる、きみの美しい、いつわりにみあった、わたしのうそだった。沼はよどみ、使命も髪も枯れてしまったが、いつわりもうそも、わたしは、まだまだ言いつのるつもりだ。』
このような光景や、振る舞い、思いなどが、私の心に残りました。

この詩から伝わってきた思いです。

『おもい使命をうけて、それを果たそうとするが、なかなかうまくはいかない。夜になって、その使命のいくつかを放棄することにしたが、いつわりと思われる使命ほど簡単に放棄できた。使命を果たせないままだったが、何事もなく月日が経過していったので、その間に、与えられた使命を、自分が望むものに変えて、果たしていった。しかしその使命も、きみのいつわりに応じたもので、私的なものに過ぎなかった。しかし、たとえそうであっても、わたしはそれを続けるつもりだ。』
このような思いが、伝わってきました。

何かをしようとする時、

その課題が難しいものであるほど、課題について考えるものです。そしてその課題の遂行が、それほど緊迫したものでなければ、次第に本心を優先させるように、課題を変えていくことが多いのかも知れません。

私的化した課題は、公的な課題に比べれば、まがい物と思われがちですが、ある意味では、主体的に遂行できるものこそ、正しい課題といえることもあります。

一般的な理念としての正しさというものは、

多数の個別の状況下での正当性を考慮したもので、必ずしも、その時の個別の状況下での正当性を考慮したものではありません。

結局、一番良い課題の遂行(使命)というものは、その時々の状況下において、必要と思われるものであって、それが分からない場合のみ、一般的な必要性に則るべきではないか、とそんなふうに思いました。(H.O)

以上が知人(H.O)さんからメールでした。またメールがあり次第掲載させていただきます。

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