「自由」という言葉がありますが、今日はこの「自由」について考えてみたいと思います。
私たちは自分のしたいことが制限なくできる状態(絶対的自由)を「自由」と考えがちですが、このような状態は他の人達との軋轢を生み、結果として却って不自由を強いられることになるため本来の「自由」とはいえず、逆に一定の制約の元でしたいことができる状態(相対的自由)の方が、お互いの摩擦も避けることができ、結果的に不自由を強いられることが少なくなるので、本来の「自由」と呼ぶに相応しい状態ということができます。
一定の制約の元というときの
「一定の制約」というのは、互いが認める制約を意味しており、これを確立するためには強大な「権力」を必要としました。人間は元々は絶対的な自由人であり、いわゆる力で押さえつけられることなしには、何らかの制約に従うことはないために、必要不可欠な存在として「権力」が使われるようになりました。
人間の歴史を振り返ると「権力の争奪戦」の歴史であることが分かります。これは一つの強大な「権力」形成への道であり、相対的な自由を謳歌するするための前提として、なくてはならない行為だったと思います。
このように見てくると、
現在世界各国では国単位の権力構造ができあがり、その庇護の元で相対的自由が謳歌されていますが、いくつかの国ではその権力構造が崩壊したり変質したりして、いわゆる絶対的自由の中で各々の勝手な行動により却って不自由が強いられています。
これを打開するには、
国連規模の「権力」下での「一定の制約」が必要となりますが、各大国の思惑がそれを邪魔しているともいえます。地球が他の星の住民から攻撃される事態になれば、必然的に国連規模の「権力」が形成されると思われますが、そのようなことがなくても形成できる見識や知恵は既に多くの人に備わっているはずです。
単に人を押さえつける「権力」ではなく、相対的な自由を保証する世界的「権力」の構築のためにも、人類全体の理念の向上とそれを実現する偉人の登場を、強く期待してやみません。