詩「推定閣下」を読んで

知人(H.O)さんからメールがきました。 メールの内容を以下にそのまま掲載します。

詩集「言葉の河」- 詩「推定閣下」の読後感想です。

詩を読んだ後の、心に残った光景です。

『推定閣下御夫妻は夫婦の偉大な鑑であった。婦人はよく修辞をたしなまれ、閣下におかれては論理を自家薬籠中のものとなされておった。ために、御夫妻の諍いじみた会話さえが、聖歌のように神々しく清々しい調べとなってあたりに響いたのである。わたくしとはつまり、めだたぬ一つの凡例であり、閣下並びに夫人の弁舌の前にひたすら平伏しておっただけの存在である。推定閣下御夫妻は、雪原の眩しさに、ゆくりなくも敗北を余儀なくされて、ある朝杳としてお姿を消された。凡例としての責任の所在を、その後ひとがわたくし一人の個性に求めたので、わたくしが新しい推定閣下になった。推定は爾後、論理とも修辞とも無縁である。ただ、わたくし一人の恣意に根ざすのである。』
このような光景や、振る舞い、思いなどが、私の心に残りました。

この詩から伝わってきた思いです。

『修辞をたしなまれた夫人と論理を薬籠中のものとした閣下の推定閣下御夫妻は、ある朝雪原の眩しさに敗北を余儀なくされて杳としてお姿を消された。わたしは御夫妻の弁舌の前にひたすら平伏しておっただけのめだたぬ一つの凡例だったが、その後ひとが、その凡例としての責任の所在を、わたくし一人の個性に求めたので、わたくしが新しい推定閣下になった。推定は爾後、論理とも修辞とも無縁である。ただ、わたくし一人の恣意に根ざすのである。』
このような思いが、伝わってきました。

何かを表現する場合、

先に一つの論理があり、それをいくつかの凡例を用いて、うまく美しく表現するということがあります。その表現における中心は論理ということになりますが、この論理の実体は筋道ですから、直接言い表すと抽象的になりがちです。

たとえば「AがBで、CがBなら、AはCである」、といっても直感的な理解にはなりません。それを補うものとして凡例という、具体的な表現(解説)が用いられますが、それはあくまでも例なので、推定としての側面が強いものとなります。

たとえば

「無理をすると悪い結果を招く」という論理があり、凡例として、「少しでも速いタイムを出そうとして、思い切り走ったら肉離れを起こした」という表現をした場合、これは一つの推定に過ぎず、必ずしも「思い切り走る」ことで「肉離れを起こす」とは限りません。

その場合、「思い切り走ると肉離れを起こすことがある」、「思い切り走ったので1秒時間が縮まった」など、個別の凡例自体を一つの事実として表現するだけで良しとすれば、推定や修辞などは必要なくなります。

論理としてまとめることで、

いろいろな推定が可能になり、応用が効くという側面はありますが、あくまでも推定であることを自覚し、時々に応じた凡例によって確認する姿勢が大切で、それがなければ、現実とかけ離れた推定のために、信用を失うことになりかねません。

特に政治や経営の場においては、英断とか、トップダウンといった言葉が使われがちですが、この場合においても、ボトムアップの情報を疎かにせず、現実との乖離に注意を払うことが大切で、今回は、そのことについて考える、良い機会になりました。(H.O)

以上が知人(H.O)さんからメールでした。またメールがあり次第掲載させていただきます。

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