詩集「言葉の河」を読んで
知人(H.O)さんからメールがきました。 メールの内容を以下にそのまま掲載します。
詩集「言葉の河」をご紹介したいと思います。
この詩集の著者「高橋秀明」さんは、この詩集で、第2回(2000年)小野十三郎賞を受賞しています。
この詩集は1999年に出版されていますが、これ以前にも1976年には詩集「夢国から」、1979年には詩集「禁猟地の未明」、1983年には詩集「博物館のある光景」、1997年には評論集「かなしき町の歌のしじま」が出版されています。また、紹介は省きますが、この後にも多くの著作が出版されているようです。
著者は
私の中学校時代の級友ということもあり、ある機会に、この作品を手にすることになりましたが、その時、読後感想を交えて、この作品を紹介しようと思いました。それは、その場で、少し読んでみて、色に関する表現が多いことに気を引かれたからでした。その時は「色にこだわって読んでみよう」と思っていました。
その後、しばらく時間をかけて、この詩集を読みましたが、色も含めて比喩表現で溢れていることに気が付きました。それらは必ずしも具体的な何か(モノ)を示すようには作られていないようで、仮に具体的な何かを比喩する書き方を「見える言葉の流れ」と表現するなら、この詩集は「見えない言葉の流れ」という表現がふさわしい書き方のような気がします。
ただ「見えない言葉の流れ」といっても、
一つの景色や、一つの形や動作が、ちらっと見えては、また他のものに変わって、それらが、どんどんつながっています。そこから、何かの思いが湧き上がり、時には、現実の読み手の目指すべき方向を、示唆することもあるように感じられました。
具体的なモノを示す書き方に比べると、思いの対象が限定されないために、より幅広い真情の発露が促される可能性が高く、そこに作者の意図があるような気がしました。
つまり、ここに収められた詩は、絵画でいえば「抽象画」に類するもので、たとえば天井の木目が、人の顔に見えたり、何かの形に見えるのと同様に、いわゆる「見えない言葉の流れ」を通して、読み手の「思い」を自由に引き出し、それが、探していた何かに気付くきっかけとなることも含みつつ、作られているように思われました。
著者としての
比喩の対象が何であるかについても、大変興味あるところではありますが、それを知れば、ある意味、読み手の自由な思いが、著者の思いに引き寄せられることになり、その分、読み手の思いが制限されることを思えば、却って知らない方が良いという考え方もあるようで、あえて詮索することは止めることにしました。
この詩集「言葉の河」には、タイトル「言葉の河」という詩の他にも、いくつかの別のタイトルの詩が収められています。今後、それらの詩における、「見えない言葉の流れ」としての比喩表現から、何が感じられたかを、読後感想としてお伝えできればと思っています。(H.O)
以上が知人(H.O)さんからメールでした。またメールがあり次第掲載させていただきます。