勤勉の心の源

ふとした行為に「はっ」とすることはありませんか。

自分の周りにゴミが落ちているとき、それを拾ってしかるべき所に捨てることができるでしょうか。

通常ですと、

自分が落としたゴミについては拾って捨てたり、持ち帰ったりすることができても、他の人の落としたゴミについては非難こそすれ、そのまま放っておくことが多いのではないでしょうか。

このことは、無条件に良い行いをしようとする前に、悪い行いをしている者への非難を先に行うという傾向が強いことを表していると思います。

近年何かと理屈が先に来て、

悪いことを補ってあげるという気持ちよりも、悪いことを償わせるという傾向が強くなったように思いますが、いかがでしょうか。

外国では、良い悪いということをはっきりと主張し、堂々と悪を是正させるといったことを、何かで読んだ記憶がありますが、日本の教育にも、そのような視点が導入された結果なのでしょうか。

堂々と主張する積極性が、

高く評価されてきたという側面は、少なからずあると思いますが、積極的に人を正すことも一つの正義の心であれば、黙って自らが補うこともまた大きな正義の心であると思います。

振り返ってみると、昔からの日本人の勤勉さは無条件の努力だったような気がします。努力に関しても、自分は自分、他は他、という考え方で、とりわけ他の人にとやかく言うことは、少なかったのではないでしょうか。

他の人の怠惰や不正などに対する積極的な主張は、一種の合理性として理解できますが、自分のみへの無条件の努力に比べると、やはり心の広さが違うような気がします。

他への主張は脇において、

「良いことと思ったら自分がやればいい」と、自分の努力に力点をおいた心に支えられたとき、そこには素晴らしい成果が残るのではないでしょうか。

逆に「他人の怠惰を非難しなければ、自分ばかりが損をする」という気持ちで仕事に向かう場合は、そこに多くの打算が生れ、その気持が集中を妨げる結果になるような気がします。

島国気質ということが話題になることもありますが、

元々日本人の心の中には「怠惰な人は皆から哀れみをもたれる可哀そうな人だから」という考え方があり、非難したり咎めたりということより、そう思われないようにすることを大事にしたのではないかと思います。

仮に怠惰や不正があっても「そのような人を非難するのは大人気ない」、「まともな人がその人達を補ってやれば良いことだ」という気持ちで接することにより、逆に「そんな情けない人間にはなりたくない」という気持ちを本人に抱かせて、皆まじめに努力するようになっていったのではないかと思います。

この思いこそが勤勉の心の源のような気がします。

相手の否を咎めることも

時には必要なこととは思いますが、なるべく哀れみをかけることで、日本人らしい勤勉さがより強まり、そんな人達で一杯の国になったら、もっと暮らしやすい、いい国になるのだと思います。

競争社会であればあるほど、なかなかそうもいかない場合が多くなりますが、心がけ次第で変わることも少なくないような、そんな気がします。

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