国民審査で「仮面」を脱いだ最高裁判事

『31日の衆院選投票日には、最高裁判所裁判官の国民審査も実施される。直接投票で裁判官を辞めさせられる唯一の機会だが、過去に罷免された判事はおらず、制度の形骸化もささやかれる。』との報道がありそこでは「裁判官は仮面を脱ぐことで国民との対話になるはず」との持論が展開されていました。


 

31日の衆院選投票日には、最高裁判所裁判官の国民審査も実施される。直接投票で裁判官を辞めさせられる唯一の機会だが、過去に罷免された判事はおらず、制度の形骸化もささやかれる。そんな中、元最高裁判事の山浦善樹さん(75)は「裁判官が『仮面』を脱げば、国民との対話の場になる」と訴える。思いの奥にあるのは、自らが審査を受けた際に届いた一枚のはがきだった。

弁護士だった山浦さんは2012年3月に最高裁判事に就任した。街角に小さな弁護士事務所を構え、市民に寄り添う「マチ弁」を約30年続けていた。その経験から、就任の記者会見では「(裁判の)記録の中に埋もれている悲鳴や叫びをキャッチしたい」と抱負を語った。

「著名事件や大型事件を担当したことはありません」「市民は本当に法律によって守られているのか、疑問を感じてきました」。「心構え」の欄には、マチ弁として感じてきたことを素直に書いた。裁判は公正でなければならないが、現実は弁護士を何人も雇える資力のある人が有利になりがちだ。きれいごとばかりではないと肌で感じてきたからこそ、最後に「武器を持たない市民の悲鳴を聞き出すことに全力投球する」とつづった。

【毎日新聞 配信】

私は

いわゆる雲の上のような存在である司法の頂点(?)を極めている最高裁裁判官に対する国民審査という機会を大切にしており、つまりは「実態に即していないと思われる裁判官には全て「✕」印をつけることにしています。

具体的には審査公報に「建前に終始した当たり障りのない文言を書き連ねている人」は「実態に即していない」とみなすことにしています。

つまり

犯罪を結果で裁くか過程で裁くかという問題も含めて、裁判官は一つ一つの犯罪に対する裁き方にその都度悩みを抱いていると思っています。

仮に「誤って体に触れたために落下したが、その結果大怪我をしたケースと軽い怪我で済んだケース」のようなことを想定したとき、過程で裁く場合は「誤って体に触れた」という点では同じなのでその点での刑罰判断に重点が置かれますし、結果で裁く場合は「大怪我をしたか、軽い怪我で済んだか」という点での刑罰判断に重点が置かれますので、その刑罰判断には大きな違いが現れます。

それらを考えるとき、

さまざまな葛藤があったはずで、それらを吐露する人はそれだけ真摯に向きあっているということで「裁判官としての実態に即している」と思っています。

裁判官は法律に則って裁くのが仕事ですが、日頃裁いていればこそ、逆にどのような法律にすべきかということも分かるはずで、そのような意見を公表することが実態に即した立法へと導く一つのきっかけになるものと思っていますし、またそこから三権分立という原則とそれをより実態に即したものへと変革する道も開けてくるものと思われます。

衆議院議員選挙に向けて多くの立候補者が様々な主張を繰り広げていますが、仮に「実態に即しているか」という観点を大事にした場合、何か見えてくるものもあるのではないでしょうか。

中国という独裁国家の動向と安全保障・外交の問題、非正規雇用の増大と経済格差の問題、脆弱な医療と基礎研究の問題など様々な問題が山積みとなっている現状を見るとき、果たして「実態に即した対応を実施できるのは誰か、どの政党か」という観点で判断を下してみることも一つの有効な手法だと思いますが、いかがでしょうか。