安田純平氏への自己責任論と大本営発表

ジャーナリストの安田純平氏が3年ぶりに解放されたことを受けて、またもや「自己責任論」が跳梁跋扈しているそうです。

『安田純平氏への「自己責任論」は大本営発表を再来させる』

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ジャーナリストの安田純平氏が3年ぶりに解放されたことを受けて、またもや「自己責任論」が跳梁跋扈している。国に迷惑をかけるな、われわれの税金を無駄にするな、というのだ。

だが、相変わらず短絡的な反応といわざるをえない。

そもそも、危険な戦場や紛争地帯などに赴くジャーナリストがいなければ、われわれは現地の情報を得られないし、それについて議論し、選挙の投票などに活かすこともできない。

活発なジャーナリズムは、健全な民主主義に欠かせないのである。その萎縮は、みずからの首を絞めるだけだろう。

どうしてジャーナリストが機能不全だと「大本営発表」を招くのか?

「ジャーナリズムなどなくても、政府の発表があるではないか」というかもしれない。だが、政府はしばしば真実を隠し、嘘を発表する。大本営発表の苦い歴史がまさにそうだったはずだ。

太平洋戦争下の大本営発表は、実にデタラメなものだった。戦艦撃沈の戦果は4隻から43隻(10.75倍!)に、空母撃沈の戦果は11隻から84隻(約7.7倍!)に水増しされ、反対に、戦艦の喪失は8隻から3隻に、空母の喪失は19隻から4隻に圧縮された。

【文春オンライン 配信】

報道では、

活発なジャーナリズムは健全な民主主義に欠かせないとして、安易な「自己責任論」との訣別を呼びかけています。

状況を整理しますと、一方では「何が起こっているのか知らせたい」というジャーナリストの存在があり、またもう一方では「行動(報道)の自由を尊重しつつも、危険な目にあえば放ってはおけないので、できるだけ行かないで欲しい」という政府の存在があり、いわゆる「危険地帯への取材活動をどう考えるか」という問題が提起されているものと思われます。

自己責任論というのは

極端な言い方をあえてすれば、「危険を承知で行くのだから政府は何もする必要はない」ということになると思われますが、実際のところは分かりませんが、政府としてはどんな経緯であっても、日本人の生命の危機に対しては、できるだけの交渉を試みるものと思われます。(当然ながら金銭のやりとりも含まれると思います。)

多くの国民が自己責任論の考え方に賛同するようになれば、その世論を背景に、政府は危険地帯への出国を強制的に停止することになるかも知れません。

その意味では報道にもあるように「健全な民主主義が変質する可能性を秘めている」と言えなくもないと思います。

私個人としては、

できるだけ現地にいる人達とのネットワークを築き、そこから情報を得ることを提案したいと思います。

勿論それらの情報を鵜呑みにすることはできませんが、仮に安田純平さんのようなジャーナリストが取材するとしても、ある意味では一方的な取材にならざるを得ない側面もあり、結果的に大きな差はないものと思います。

できれば安田純平さんのようなジャーナリストが、危険地帯には行かずにその近辺に滞在して、現地にいる人達とのネットワークの軸になって、現地の情報を得て状況を読み解き、解説するという方法が、より好ましいような気もします。

やはり

ジャーナリスト(軍事的な素人)が危険地帯に滞在すれば人質になる可能背も高く、その結果多くの人に迷惑がかかることを思えば、現地での滞在はできるだけ避けるべきだと思いますし、また一方ではジャーナリストとしての状況判断もあり、また現地関係者とのネットワークも築きやすいことを思えば、情報収集の基点としての役割を担うべきだとも思います。

実際に可能かどうかは分かりませんが、報道への自由を抑制させないで、しかも迷惑をかけずに、ある程度の現地情報の報道が可能となるなら、そのような方向での活動を検討する価値は充分にあるのではないでしょうか。