詩「リラ若しくはリマ又は‥」を読んで

知人(H.O)さんからメールがきました。 メールの内容を以下にそのまま掲載します。

詩集「言葉の河」- 詩「リラ若しくはリマ又は・・・」の読後感想です。

詩を読んだ後の、心に残った光景です。

『車からおりた父が、まず見えなくなった。私たちの家族は虚無の労働の彼方から来たが、ここからどこへ向かえばよいかわからなくなった。そうこたえたときには、車も子どもたちも、もうどこにも見えなかった。道政庁舎前の庭園では、細い雨に打たれてリラの花穂がふるえている。東北の貧しいヤン衆が稼ぎに明け暮れた浜辺で、ニシンの尾を数えた者はいないし、リマという都市で虐殺されたゲリラ一人ずつの人生の重さを数えた局もなかった。世界は、簡単に一周できるくらい、まあるく賑わっていた。』
このような光景や、振る舞い、思いなどが、私の心に残りました。

この詩から伝わってきた思いです。

『一つの出来事には、本来、一つ一つの思いが存在するものだが、たとえば漁業においては、一攫千金のニシンにだけ目がいき、たとえばゲリラの報道においては、敵の全員死亡を報じることだけに目がいく。ニシンの尾を数えて、その収穫に感謝する訳でもなく、ゲリラ一人一人について、その人生の重さを報じる訳でもない。海のニシンも、リラの花穂も、漁師の人生も、ゲリラの人生も、すべてが大雑把にくくられて、そこには思いのかけらも存在しない。そんな虚無な世の中で、自分だけは、個々の思いを噛みしめるように生きていきたい。』
このような、生き方への思いが、伝わってきました。

人の生活もいろいろで、

健康状態や、財政状態などによって、個々への扱い方が変わってきます。花の成長に心を奪われる生活もあれば、人の生き死ににさえ、無頓着になる生活もあります。

人は、生活に余裕がなくなってくると、個々について心を注ぐことも、少なくなってしまいますが、そうなることで更に、心の余裕をも失うことになります。

しかし、この心の余裕こそが、人を人として在らしめる基盤であり、他の人を思いやる源泉でもあります。

生きるものの悲しみや、

喜び、苦しみなどの、一つ一つに心を砕き、思いやることによって、この人生が、はるかに豊かで、充実したものになる、ということは、自ら、そのような体験を積み重ねることによって、次第に分かってくるものだと思います。

全ての物事には、それぞれの思いが存在し、それを思いやる心が、互いの理解を深め、豊かな人生へと導くということを、改めて知らされた思いでした。(H.O)

以上が知人(H.O)さんからメールでした。またメールがあり次第掲載させていただきます。

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