大きな喜びと小さな喜び

人の喜びについて考えてみました。

私たちは「より大きな喜び」を求めて飛躍を目指すべきでしょうか、それとも「より小さな喜び」で満足して安泰を目指すべきでしょうか。過去の時代にも、そして現代にもいわゆる「質素」を美徳に挙げる人は少なくありませんが、この人達の真意はどこにあるのでしょうか。

「質素」の反対の言葉としては

「豪華」が思い浮かびますがイメージ的には、「質素」からは暗くいつも我慢して生きている様子が目に浮かび、「豪華」からは明るくいつも積極的に何かに挑戦して生きている様子が目に浮かぶのではないでしょうか。童話にある「アリとキリギリス」が一つの象徴となるかも知れません。

これは満足感のもち方の違いを表しているものといえます。「質素」は少ない満足感で充分と考え、「豪華」はより大きな満足感でなければ充分とは考えないといった違いがあるように思われます。

満足感というのは

一定のものではなく、より大きく強いものを求める傾向があります。「明日は今日よりももっと充実させたい」という気持ちが、人を努力させ、成長させていくともいえます。

この積極性は人を能動的にしますが、同時に現状への不満の気持ちを増大させることにもなります。つまりより多くを望むために、相対的に現状に対する満足感をより少なくしてしまいます。

人の欲望にはきりがなく、

それはどんどん大きくなり、それに伴い不満の方も増加していきます。一定程度であれば積極性の効果も生まれ、人をより能動的にしますが、程度を越えるとより大きな満足感を求めて行動をエスカレートさせることになります。

結局

小さな喜びで自分を満足させることの意味は、このどんどん満足感を高めようとする「人の性質」を制御したいという気持ちの表れだといえます。大きな満足感を求める気持ちは、やがて不愉快の排除の気持ちも強くし、他への攻撃性となって現れるのに対し、小さな満足感で充分とする気持ちは、不愉快を飲み込むことができるので「心の安泰」をもたらすものということができると思います。

世の中には

大きな喜びを得ようとして多くの「無理」が生み出され、それが人を不幸にすることが少なくありませんが、一方で小さな喜びで良しとすることで多くの「優しさ」や「思いやり」が生み出され、それが人を幸福にすることも少なくはないのではないでしょうか。

積極的に活動することは大いに価値のあることではありますが、どこかで線を引いて、それで良しとする心の余裕も同様に価値のあることだと思います。

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