程々に行う

今日は「完璧とゆとり」について考えてみました。

私達には「完璧に物事を成し遂げたい」という気持ちと「無理しても良いものはできない」という気持ちの両方があるのではないでしょうか。また別の見方として「結果が全て」という考え方もあれば「過程ありき」という考え方もあります。これらについて少し検討してみたいと思います。

検討する場合は

多くの観点から行われるのが理想ですが、ここでは「継続性」という観点から検討してみたいと思います。この「継続性」を選んだのは、人間の生き方を考える場合には「一生を通した考察」が重要となると考えたからです。他にも「短期的な目標達成」などの観点も考えられますが、それらについてはここでは割愛したいと思います。

「継続性」という観点から見ると

大事な要素は「意欲を保つこと」になります。つまり気持ちが「ポキンと折れない」ように維持することで、明日も来月も来年も前向きに進んでいくことができます。

では「継続性=意欲を保つ」という観点から

「完璧とゆとり」を見るとどうでしょう。「完璧」を目指す場合は「前向きな気持ち」と「不満や不安といった気持ち」が同居することになります。つまり「もっと良いものにしたい」という意欲が「多くの障害を提示する」という行為となり、その障害を乗り越えられない場合は「意欲の低下」へと進む可能性があります。

「ゆとり」を目指す場合は

逆に「現状肯定の気持ち」と「停滞や退屈といった気持ち」が同居することになります。つまり「このくらいで良い」という満足感が「新たな挑戦を拒む」という行為となり、新たな刺激がない場合は同様に「意欲の低下」へと進む可能性があります。

「完璧過ぎる」、「ゆとりを持ち過ぎる」が共に「意欲の低下」をもたらすことになるとすれば、「程々」の完璧さ、「程々」のゆとりで止めることが大切だということになります。

次に

「結果が全て」と「過程ありき」いう考え方はどうでしょうか。私は「結果が全て」という考え方は強欲を象徴するものと考えます。日本の歴史においても「勝敗は時の運」ということがいわれたことがあるようですが、これが正しいのではないかと思います。戦争のような命をかけるような重大な行為においても結果を出すことの難しさを象徴した言葉だと思います。

「勝敗は時の運」を負けた方の言い訳と

捉える見方もあるでしょうが、あらゆるものを全て瞬時に統合して必ず結果を出すなどというのは幻想に過ぎません。特に同じ様な分析を重ねた相手と対戦する場合はなおさらです。

その時々の判断や行動はある程度の計算はできても実践では全て流動的なものに過ぎません。ですから「結果が全て」の考え方では「継続性」は保て無いと思います。

逆に「過程ありき」という考え方は

自然な考え方だと思います。私達は不確定な要素の多い中で暮らしています。たとえば通勤時間帯に事故が発生して電車やバスが遅れることもあります。この場合は「結果的に遅れないこと」などと言っても何の解決にもなりません。

事故という事態に遭遇して

どのような方法を取ったか、つまり「過程ありき」だと思います。同じ遅れる場合でも、あきらめて「ただダラダラ行動した」のか、「交通情報に基づき有効な手立てを講じた」のかで評価すべきだと思います。

過程での努力があれば「単なる言い訳」とは違うものと考えるべきではないでしょうか。また「過程ありき」の考え方であれば、偶発性などの場合を考慮に入れても「継続性」は充分保てると思います。

「継続性」という観点から見た場合、

前記では「程々」の完璧さと「程々」のゆとり、そして「結果が全て」ではなく「過程ありき」を選択しましたが、「過程ありき」を重視するということは「程々に」という考え方の一つの応用ということもできますので、それらを考慮すると「継続性においては程々が大切」という結論に至りました。

最後に

何かの本に書いてあったゲーテの言葉をご紹介したいと思います。
「人生において重要なのは生きることであって、生きた結果ではない。」

生きること自体が重要だということは、時々での努力があれば良い(結果にはこだわらない)ということを言っていると解釈できます。つまりは「程々に無理をしないで努力し続けることが重要」ということになるのではないでしょうか。

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